3月23日に官軍は植木・木留を攻撃し、一進一退の陣地戦に突入した。3月24日にも官軍は再び木留を攻撃し、3月25日には植木に柵塁を設け、攻撃の主力を木留に移した。3月30日、官軍主力は三ノ岳の熊本隊を攻撃し、4月1日には半高山、吉次峠を占領した。4月2日、官軍は木留をも占領し、薩軍は辺田野に後退し、辺田野・木留の集落は炎上した。4月5日には官軍本営にて軍議が開かれた。4月8日、辺田野方面は激戦となり、官軍は萩迫の柿木台場を占領した。4月12日に薩軍は最後の反撃をしたが、4月15日、植木・木留・熊本方面より撤退し、城南方面へ退いた。これを追って官軍は大進撃を開始した。
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鳥巣方面
鳥巣では、3月10日に薩軍がこの地の守備を始めてから4月15日に撤退するまでの間、官軍との間に熾烈な争いが繰り広げられた。まず3月30日の明け方に近衛鎮台の2隊が二手に分かれて隈府に攻め入ってきた。始めは人数不足で不利な状況だった薩軍であったが、そのうち伊東隊による応援もあり、どうにか官軍を敗退させることができた。
4月5日、第三旅団(三浦梧楼少将)は鳥巣に攻撃をしかけ、薩軍の平野隊と神宮司隊が守備している真ん中に攻め入った。虚をつかれた両隊はたちまち敗走した。これを聞いた薩軍の野村忍介は植木にいた隊を引き連れて鳥巣に向かい、挽回しようと奮戦するが、結局、この日一日では決着はつかず、4月7日に官軍がこの地に一旦見切りをつけ、古閑を先に攻略しようとしたことにより、一時的に休戦状態になった。一方古閑では、平野隊・重久隊の必死の抗戦により官軍はやむなく撤退してしまった。
薩軍は勇戦し、4月9日、再び隈府に攻め入った官軍を撃退したが、弾丸・武器の不足によりこれ以上の戦闘を不可能と考え、赤星坂へ撤退した。4月10日から4月13日にかけて官軍による鳥巣の再攻略が始まり、薩軍もこれに対して勇ましく応戦したが、いよいよ武器がつきてしまったうえに、鳥巣撤退命令が下されため、この地をあとに大津に向かった。
薩軍の長囲策の破綻と官軍衝背軍の上陸
薩軍の主力が北部戦線に移った後も熊本城の長囲は続けられていたが、官軍衝背軍の上陸と熊本鎮台との連絡がついたことから長囲策は破綻し、戦線は熊本城の南部東部に移った。此の地でおこなわれた、いわゆる城東会戦の帰趨は、田原の敗戦にも劣らない打撃を薩軍に与えることになった。
熊本城長囲
城中の糧食が尽きるのを待って陥落させるという長囲策を採る薩軍が対砲戦を主としたので、守城側はそれに苦しんだ。3月12日、段山をめぐる両軍の争奪戦が起こった。この争奪戦は13日まで続いた。霧の中、砲撃・銃撃を混じえた激戦は、霧が晴れたときには双方の距離10数歩という接近戦であった。結局、段山の背後に出た鎮台側が薩軍を敗走させた。この戦いは官軍死傷者221名、薩軍死者73名捕虜4名という長囲戦最大の激戦であった。
薩軍主力が北方に転戦したため鎮台の守城負担は幾分減ったとはいえ、開戦前の出火で失った糧食の補充が充分でないため糧食不足に苦しみ、極力消費を抑えることで凌いでいた。池上率いる長囲軍は当初、21箇小隊・1個砲隊、計4,700名近くもいたが、長囲策が採られると16箇小隊・2箇砲隊に減少し、3月になって高瀬・山鹿・田原・植木等の北部戦線が激戦化するにつれ、増援部隊を激戦地に派遣してさらに減少した。そのために長囲軍は寡少の兵で巨大な熊本城を全面包囲することに苦しんだ。一方、鎮台側はこの機に乗じ、時々少量の糧食を城中に運び入れた。
長囲軍が減少した薩軍は、桐野が熊本隊の建策を入れて、3月26日、石塘堰止を実行し、坪井川・井芹川の水を城の周囲に引き込んだ。これによって熊本城の東北および西部の田畑は一大湖水に変じた。この策によって薩軍は城の東北及び西部を守る兵を数百名節約できたのであるが、鎮台にとっては城の西部を守る兵が節約できたので、さらに好都合であった。
鎮台兵の出撃
熊本鎮台の城外出撃は薩軍主力が北部戦線に移動した2月27日から始まった。この日、大迫尚敏大尉率いる偵察隊は坪井方面の威力偵察に出撃した。3月26日、植木方面で銃声を聞くが征討軍が現れないので、後方攪乱部隊を3隊に分け、京町口・井芹村・本妙寺に出撃させた。これらの部隊は一時薩軍を走らせたものの、逆襲にあい、撤退した。
籠城が40日にもなり、糧食・弾薬が欠乏してきた鎮台は余力があるうちに征討軍との連絡を開こうとして、南方の川尻方面に出撃することにした。隊を奥保鞏少佐率いる突囲隊、小川大尉率いる侵襲隊、及び予備隊の3つに分け、4月8日に出撃した。侵襲隊が安巳橋を急襲し、戦っている間に突囲隊は前進し、水前寺・中牟田・健軍・隈庄を経て宇土の衝背軍と連絡した。一方、侵襲隊は薩軍の混乱に乗じて九品寺にある米720俵・小銃100挺などを奪って引き揚げた。
衝背軍上陸
官軍南下軍は2月の高瀬の戦い以来目立った成果を収めることができずにいた。そこで高島大佐の建議により、熊本鎮台との連絡をとること、薩軍の鹿児島と熊本間の補給・連絡を遮断すること、薩軍を腹背から挟撃すること等の企図を持った軍が派遣されることになった。黒田清隆中将が参軍となり、この上陸衝背軍を指揮することにした。
最初の衝背軍は3月18日、長崎を出発して八代に向かった高島鞆之助大佐(後に少将)率いる別働第二旅団(後に別働第一旅団に改称)であった。この旅団は3月19日、艦砲射撃に援護されて日奈久南方の州口及び八代の背後に上陸し、薩軍を二面から攻撃して八代の占領に成功した。20日には黒田清隆参軍率いる1箇大隊半と警視隊500名余が日奈久に上陸した。薩軍では二番大隊一番小隊が日奈久、二番大隊五番小隊が松崎西南の亀崎、二番大隊六番小隊が熊本西北の白浜で海岸警備をしていたが、なんら効果的な防御ができなかった。
官軍の八代上陸の報を得た薩軍は、熊本長囲軍の一部を割き、三番大隊指揮長永山弥一郎率いる5箇中隊・都城隊・二番砲隊を八代に派遣した。3月20日、薩軍先遣隊と高島大佐率いる官軍は氷川を挟んで激戦し、薩軍は対岸に進出した。しかし、翌21日には増援を得た官軍が押し返し、薩軍を砂川に退却させた。22日、黒田参軍は八代から宮の原に出、ここで薩軍と激戦した。増援を得た薩軍と官軍の戦闘は24、25日と続き、戦況は一進一退した。
3月24日、長崎を出発した別働第二旅団(山田少将)・別働第三旅団(川路少将)は25日午後、八代に上陸した。このとき一旦各旅団の名称が改められたが、後29日に再び改称されて次のようになった。
高島鞆之助大佐の旅団 ─ 別働第一旅団
山田顕義少将の旅団 ─ 別働第二旅団
川路利良少将の旅団 ─ 別働第三旅団(警視隊を主体として編成)
黒川通軌大佐の旅団 ─ 別働第四旅団
小川方面の戦い
3月26日、黒田参軍は別働第一旅団を左翼、別働第二旅団を中央、警視隊を右翼に配し、艦砲射撃の援護のもと三方から小川方面の薩軍を攻撃し、激戦の末、薩軍を撃退して小川を占領した。この時、薩軍の猛将永山弥一郎は「諸君何ぞ斯(かく)の如く怯なる、若し敵をして此地を奪はしめんか、熊本城外の我守兵を如何にせん、大事之に因て去らんのみ、生きて善士と称し、死して忠臣と称せらるゝは唯此時にあり、各死力を尽し刀折れ矢竭(つ)き而して後已(やまん)」(『薩南血涙史』)と激励したが、戦況を逆転することはできなかった。
松橋付近の戦い
3月30日、黒田参軍は別働第三旅団に娑婆神嶺、別働第一旅団・別働第二旅団に松橋を攻撃させた。別働第三旅団は娑婆神嶺を占領、別働第一旅団と別働第二旅団は大野川の線まで前進した。翌日、別働第二、第三旅団は山背と本道の両面から松橋を攻撃し、別働第一旅団は北豊崎から御船に進み、薩軍の右側を攻撃した。これに耐えきれず、薩軍が川尻に後退したので、松橋を占領した。
宇土・堅志田・緑川の戦い
4月1日、別働第一旅団が薩軍夜襲隊を追撃して宇土を占領した。また別働第三旅団は甲佐に退却した薩軍を追撃して堅志田を占領した。3日、早朝の霧に乗じた薩軍の急襲を別働第三旅団は激闘5時間の末、これを退け、追撃して緑川を越えて薩軍の側背を衝き、進んで甲佐を占領した。薩軍は悉く御船に退却した。6日、黒川通軌大佐率いる別働第四旅団が宇土戸口浦に上陸した。7日には緑川左岸に進出している薩軍を別働第二旅団が別働第一、第四旅団の援護を得て右岸に押し返した。また第二、第四旅団は木原山急襲の薩軍を挟撃して川尻に敗走させた。
御船の戦い
黒田参軍は衝背軍を部署し、次の方面への一斉進撃を企図した。
甲佐・御船・吉野 ─ 別働第三旅団
隈庄・鯰村・上島 ─ 別働第一旅団
上記旅団の予備隊 ─ 別働第一、二旅団の一部
緑川下流・川尻 ─ 別働第二旅団
同上 ─ 別働第四旅団
4月12日、別働第三、第一旅団は一斉に攻撃を開始した。別働第一旅団は宮地を発して緑川を渡り、薩軍を攻撃した。薩軍は敗戦続きに気勢揚がらず、民家に放火して退却した。この時、負傷を推して二本木本営から人力車で駆けつけた永山弥一郎は酒樽に腰掛け、敗走する薩軍兵士を叱咤激励していたが、挽回不能と見て、民家を買い取り、火を放ち、従容として切腹した。かくして御船は官軍に占領された。
同12日、別働第二旅団は新川堤で薩軍の猛射に阻まれ、第四旅団も進撃を阻止された。翌13日、別働第二旅団と別働第四旅団は連繋しながら川尻目指して進撃した。別働第四旅団の一部が学科新田を攻撃して薩軍を牽制している間に、主力が緑川を渡り、薩軍と激戦しながら川尻へと進んだ。川尻に向かった別働第四旅団と第二旅団は両面から薩軍を攻撃して退け、遂に川尻を占領した。
衝背軍の熊本入城
4月13日、別働第二旅団の山川浩中佐は緑川の中洲にいたが、友軍の川尻突入を見て、機逸すべからずと考え、兵を分けて、自ら撰抜隊を率いて熊本城目指して突入し、遂に城下に達した。城中皆蘇生した思いで喜んだが、後に山川中佐は作戦を無視した独断専行を譴責されたといわれる。
薩軍の八代急襲
このころ、薩軍は田原方面での戦闘の激化に伴って兵力が不足してきたため、桐野の命で淵辺群平・別府晋介・辺見らが鹿児島に戻って新たな兵力の徴集にあたった。3月25、26日の両日で1500名ほどを徴兵したものの、官軍が八代に上陸し、宇土から川尻へと迫っていたため、この兵力は熊本にいる薩軍との合流ができなかった。よって、この部隊は人吉から下って、八代から熊本へ進軍中の官軍を背後から攻撃し、退路を断って孤立させるという作戦のもとで行動することになった。
4月4日、人吉から球磨川に沿い、或いは舟で下って八代南郊に出た薩軍は、まず坂本村の官軍を攻撃して敗走させたのを皮切りとして、5、6日と勝利を収め、八代に迫ったが、7、8日の官軍の反撃によって八代に至ることができず、再び坂本付近まで押し戻された。4月11日、再び薩軍は八代を攻撃。疲労もあって官軍が一時敗退したが、13日に官軍に援軍が投入され、薩軍・官軍ともに引かず、4月17日までこの状態が続いた。17日、一箇大隊に薩軍の右翼をつかせる作戦が成功して官軍が有利となり、薩軍は敗走した。この間の萩原堤での戦いのとき協同隊の宮崎八郎が戦死し、別府晋介が足に重傷を負った。
城東会戦
桐野利秋は4月14日、熊本隊大隊長池辺吉十郎の建議により、二本木の本営を木山に移した。同時に鹿子木の中島健彦、鳥巣の野村忍介に急使を送って川尻の敗戦を報せ、適宜兵を木山に引き揚げるように伝えた。薩軍諸隊が熊本城・植木から逐次撤退してきた4月17日、桐野らは本営木山を中心に、右翼は大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は御船に亘る20km余りの新たな防衛線を築き、ここで南下する官軍を迎え撃ち、官軍を全滅させる作戦をとることにした。この時に薩軍が本営の木山(益城町)を囲む形で肥後平野の北から南に部署した諸隊は以下のような配置をしていた。(計約8,000名)
大津 ─ 野村忍介指揮諸隊
長嶺 ─ 貴島清指揮貴島隊及び薩軍6箇中隊
保田窪─ 中島健彦指揮5箇中隊及び福島隊
健軍 ─ 河野主一郎指揮5箇中隊及び延岡隊(約750名)
木山 ─ 薩軍本営
御船 ─ 坂元仲平指揮20箇中隊(計約1,300名)
対する官軍も、山県参軍らが熊本城でおこなった軍議で各旅団を次のように部署した。(計約30,000名)
片川瀬 ─ 第三旅団
竹迫 ─ 第一旅団
立田山 ─ 別働第五旅団
熊本城東部 ─ 熊本鎮台
熊本城 ─ 第四旅団(予備軍として)
川尻 ─ 別動第一旅団
隈庄 ─ 別動第二旅団
堅志田 ─ 別動第三旅団
八代 ─ 別動第四旅団
薩軍最右翼の大津へは野村忍介指揮の部隊が配備された。4月20日黎明、第一・第二・第三旅団は連繋して大津街道に進撃したが、野村の諸隊は奮戦してこれを防ぎ、そのまま日没に及んだ。
4月19日、熊本鎮台・別働第五旅団・別働第二旅団は連繋して健軍地区の延岡隊を攻めた。延岡隊は京塚を守って健闘したが、弾薬が尽きたので後線に退き、替わって河野主一郎の中隊が逆襲して官軍を撃破した。官軍は別働第一旅団からの援軍を得たが、苦戦をいかんともしがったかった。官軍はさらに援軍を仰いでやっとのことで薩軍の2塁を奪ったが、薩軍優位のまま日没になった。
別働第五旅団の主力は4月20日、保田窪地区の薩軍を攻めた。午後3時には猛烈な火力を集中して薩軍の先陣を突破して後陣に迫ったが、中島が指揮する薩軍の逆襲で左翼部隊が総崩れとなった。腹背に攻撃を受けた官軍は漸く包囲を脱して後退した。この結果、別働第五旅団と熊本鎮台の連絡は夜になっても絶たれたままになった。
長嶺地区の貴島は抜刀隊を率いて勇進し、別働第五旅団の左翼を突破して熊本城へ突入する勢いを見せた。熊本城にいた山県参軍は品川弥二郎大書記官からの官軍苦戦の報告と大山巌少将からの薩軍が熊本に突出する虞れがあるとの報告を聞き、急遽熊本城にあった予備隊第四旅団を戦線に投入するありさまであった。
薩軍最左翼の御船へは坂元指揮の諸隊が熊本に入った官軍と入れ替わる形で進駐していた。別働第三旅団は4月17日、熊本から引き返して来て御船を攻めた。坂元の諸隊はこの攻撃は退けたが、それに続く別働第一・第二・第三旅団の西・南・東からの包囲攻撃には堪えきれず、御船から敗れ去った。
このように両軍の衝突は4月19、20日に官軍が薩軍に攻撃を仕掛けたことから始まり、戦いは一挙に熊本平野全域に及んだ。先に薩軍最左翼の御船が敗れ、20日夜半には最右翼の大津の野村部隊も退却したので、翌21日早朝、第一・第二旅団は大津に進入し、次いで薩軍を追撃して戸嶋・道明・小谷から木山に向かい、小戦を重ねて木山に進出した。第三旅団は大津に進出してここに本営を移した。
このように「城東会戦」では、薩軍は左翼では敗れたものの、右翼の長嶺・保田窪・健軍では終始優勢な状況にあった。しかし、官軍は最右翼の大津と最左翼の御船から薩軍本営の木山を挟撃する情勢になった。これに対し桐野は木山を死所に決戦をする気でいた。しかし、野村忍介・池辺の必死の説得で桐野は遂に翻意し、撤退し本営を東方の矢部浜町へ移転することに決し、自ら薩軍退却の殿りをつとめた。こうして本営が浜町に後退したために、優勢だった薩軍右翼各隊も東方へ後退せざるを得なくなり、関ヶ原の戦い以来最大の野戦であった「城東会戦」はわずか一日の戦闘で決着がついた。